大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

松山家庭裁判所 昭和41年(家)61号 審判 1966年7月13日

申立人 野中イト子(仮名)

相手方 野中保男(仮名)

主文

本件申立を却下する。

理由

(申立の趣旨と実情)

申立人は、「相手方は申立人と相手方の住所において同居せよ。相手方は、長女町子、二女利子に対し相手方所有の松山市○○町○丁目四番二宅地一八一、八一平方メートル(五五坪)の所有権移転登記手続をせよ。もし、後者の申立が容れられないならば、同宅地の所有権を申立人と相手方との共有とする。」旨の審判を求め、その実情として、次のとおり述べた。

一  申立人の相手方とは、昭和二三年七月一九日婚姻し、その後夫婦生活を営んで、昭和二四年八月一四日に長女町子を、昭和二九年一月二五日二女利子を儲けた。

二  しかし、昭和三八年六月一五日相手方の強迫により別居せざるをえなくなり、安田英一の仲介によつて、一時別居することとし、相手方より生活費として、金三〇万円を受け取つた。また、その際、相手方から申立人に対し、一年後に金一〇万円を支払つた場合は、二女利子の親権者を申立人と定めて協議離婚することを承諾したが、その後申立人が昭和三八年一一月二六日当庁に離婚等調停を申立てた結果、相手方は申立人と同居することを承諾したので、申立人は昭和三九年一月二八日を取下げた。しかるに、相手方は申立人が応じられない同居条件を示してきたので、申立人は昭和三九年三月一一日当庁に夫婦関係調整の調停の申立をしたが、結局同年四月一三日不調となつた。

三  その後、相手方は申立人に無断で離婚届を出したりなどしたが、当庁において離婚無効の審判をうけ、その結果、現在、申立人と相手方とは、法律上婚姻関係にあるから、相手方と申立人と同居すべきであり、また、その協力扶助義務として、相手方所有名義申立趣旨記載の宅地を当事者間の子両名の所有名義とすること、もしくは、申立人の相手方との共有とすることを求める。

(当裁判所の判断)

本件記録編綴の戸籍謄本、当庁家庭裁判所調査官山口博作成の調査報告書、参考人木村すみこ、同田中佐吉、島田啓子の各供述、申立人および相手方の各供述(各第一、二回)、申立人と相手方との間の昭和四〇年(家イ)第一九五号一九六号財産分与、親権者変更審判申立事件記録編綴の土地、家屋登記簿謄本、昭和三八年六月一五日申立人作成の書面、作成日付、作成者の記載なき誓約文書、昭和三九年二月一五日付相手方作成の通告文書およびこれを送付した封筒、これに添付した郵便局の付せん、同事件における証人本田良子の証言、証人安田英一の証言および参考人としての同人の供述、申立人および相手方の各供述(各第一、二回)ならびに同事件、申立人と相手方との間の、昭和三八年(家イ)第二九〇号離婚等調停申立事件、昭和三九年(家イ)第四一号夫婦関係調整事件、昭和四〇年(家イ)第二三〇号夫婦関係調整事件に編綴してある申立書、取下書、事件経過表および昭和四〇年(家イ)第一九三号離婚無効、同年(家イ)第一九四号婚姻無効各調停事件記録編綴の各審判書原本ならびに当裁判所の審理の経過を綜合すれば、次のような事実を認めることができる。

(1)  申立人と相手方とが結婚してから、昭和三八年六月一五日別居するに至るまでの経緯

申立人と相手方とは、田沢ミチ子の仲介により、昭和二二年七月六日内縁関係を結び、翌昭和二三年七月一九日婚姻届をした。当時相手方は○○ペイント会社に勤め、申立人と相手方とは相手方の母エツと同居し、小さなバラツク建の家に住んでいた。相手方は昭和二三年○○郵政局に転職した。昭和二四年六月長女町子出産のため松山市○町に六畳、三畳、二畳の家を五、六万円で購入し、一時姑エツと別居し、同年八月一四日町子が出生した。昭和二七年一〇月頃、同市内○○町○丁目の借地に木造の二階建約六六、一一平方メー卜ル(二〇坪)の家屋を三〇万円で建築し、同所で申立人は菓子小売商をはじめ相手方も夜間、休日には営業を手伝つた。この建築資金は、○町の家屋売却、申立人の実家よりの借入金一五万円等で支弁し(昭和二九年三月までに借入金は完済)、営業は順調にいつたが、昭和二九年一月二五日二女利子が出生した。その後営業が思わしくなくなつたので、これをやめ、昭和二九年六月同家屋を高松木材松山出張所に敷金二〇万円、家賃月二万円で賃貸し、昭和三〇年三月右敷金で同市内○○町○丁目四番地二に宅地一八一、八一平方メー卜ル(五五坪)を購入し、同年一〇月同地上に木造セメン卜瓦葺平家建居宅九二、〇六平方メートル(二七坪八五)を新築した。この資金は、前記○○町の家屋の売却資金七五万円から前記敷金を返済した残額と申立人の実家よりの借入金一五万円、住宅金融公庫よりの借入金三一万円で支弁した。その後、昭和三一年相手方は前記○○郵政局管財課所属の監視員に転じ、隔日の二四日時間勤務となつた。昭和三二年頃、申立人の姑エツに対する取扱いについて相手方との間に紛争を生じ、三ヵ月ほど別居したことがあつたが、円満同居することになつた。

その後、夫婦間には格別のいさかいはなかつたが、申立人が昭和三七年六月○○生命保険会社の外交員として就職するようになつてから、家庭内に風波がためちはじめた。すなわち、申立人は朝九時頃出勤し、相手方は、その頃帰宅するということもあり、話合いの機会が減つたほか、その頃姑エツの持病である神経痛が悪化してきた。そのため、相手方も、申立人の就職については家計の足しになることであり、これを承諾していたとはいうものの、申立人が姑エツに対し十分な扱いをしないと内心不満に思つていた。しかし、申立人は、申立人で相手方の心中を察する術もなく、外交員として就労し、月給一万円から一万八、〇〇〇円と収入を上げてきた。ところが、同年七月頃、相手方の依頼で母エツの看病のためきてもらつていた叔父立石和男が朝方風呂場で洗濯していたところ、申立人がその傍を通りながら言葉をかけなかつたのを相手方が目撃して内心憤怒し、相手方は申立人にこのことを告げないで、以後同年一一月末まで、相手方は申立人と殆んど口を利かない状態になつたばかりでなく、相手方は申立人に同年九月頃より、収入の全部を申立人に渡さないようになり、申立人は自己の収入で、かなりの家計費を支出することを余儀なくされるようになり、双方の溝は深くなつていつた。他方、相手方は、同年一〇月頃たまたま護国神社の祭りで島田啓子と知り合い、その後交際を続け、同年暮頃には、長女町子を同人に会わせるなどして、親交を深め、申立人と離婚ないし別居した場合には、島田を主婦がわりにしたいというような口物を洩らしはじめ、翌昭和三八年一月頃から、申立人に対して、しきりに「申立人がいなくとも、家にきてくれる人はあるから出ていくならでていくよう」迫つた。これに対し、申立人は、「出ていくから、出ていけるよう、妻の権利として半分の財産を渡すよう」反論した。このようなことで、相手方は同年二月頃、友人の安田英一に夫婦間の紛争の仲介、斡旋を依頼した。その後、安田は両名の間にたつて、その意向を聴取したが、夫婦関係が円満に調整される見込がないと考え、離婚を前提に話しを進めることになつた。その主たる争点は、財産の分配にあつたが、上記土地、家屋を総計約金一一〇万円と評価し、これから、金融公庫の負債金二〇万円を控除した残額九〇万円を申立人、相手方および姑エツの三名で等分することとし、さらに、申立人には、同人が養育する予定の利子の養育費として金一〇万円を別途与えることを双方に提案し、その了承を得た。

そこで、安田は同年六月一〇日頃、申立人および相手方の近親者を集めて、以上の経緯を説明しめところ、申立人の叔母木村すみこから家庭円満調整の申出もあつたが、結局、双方が別居するということで親族も諒承した。そうして、同年六月一五日頃、申立人は、同日付で相手方に対し、「一金四〇万円也内金として金三〇万円也領収済、残金は一年後支払いのこと。但し、此の間一〇万円也の借用証書差入れのこと。利子も共に私の籍に入れて頂き度い。残金一〇万円也と利子の籍を渡して頂いた時離婚届に押印致します。右の通り相違ありません。」なる文書を手渡すとともに、相手方が知人より漸く工面した金三〇万円を受領し、そのうち、金二五万円を安田に寄託した。かくて、相手方と申立人とは、将来協議離婚することを前提として、昭和三八年六月一五日別居し、申立人は肩書住所に二女利子を件つて移転し、相手方は長女町子を養育することになつた。

(2)  昭和三八年六月一五日別居後の経緯

別居の翌日たる昭和三八年六月一六日、相手方は、早速かねて知合いの島田啓子を家政婦として迎え、相手方、長女町子、病身の母エツの生活の面倒をみさせることにした。当初、島田啓子は、自宅から通つていたが、相手方に夜勤があるため、母エツの看護上、泊り込むようになり、やがて、同年秋頃、相手方と“内縁”関係を結ぶに至つた。ところが、これを知つた申立人は、昭和三八年一一月二六日付で当庁に対し、相手方との離婚調停を申立てた。当庁は調停委員会を開き、同年一二月一一日から五回にわたり調停を進めた結果、翌昭和三九年一月二八日の調停の席上において相手方は申立人とともに互いに反省して、子供のため婚姻生活を継続したいと述べたので、同日申立人は申立を取下げた。相手方は、この調停の結果を島田啓子にも告げ、申立人が帰来したときは“内縁”関係を解消したいと申し入れ、同人も子供のためであればと納得していた。しかし、相手方と申立人とは、所詮、すでに愛情が著しく欠如しており、双方とも意識的には、子供のため同居した方がよいと考えながら、いざ同居の話合いとなると、再び紛争を生じた。すなわち、相手方は、同年二月初旬、申立人に対し、「姑エツの看護の万全を期すること、再び離婚問題を起したときは、申立人は相手方に対し、金品、子供の監護養育、家屋の処分等何らの要求をしないこと、今後、相手方の行動については一切干渉しないこと」というような事項を書面に認めて相手方に差出すよう求め、さらに、別居の際申立人に手渡した金三〇万円の返還をも求めた。申立人は、前者の要求については、これを書面に認めたものの、かかる要求は不当として、これに応ぜず、後者の要求も容れない態度を示すとともに、相手方に対し島田啓子との関係をたつよう要望し、申立人の姉および本田良子を介して、島田啓子に相手方の許から去るよう要求した。しかし、島田啓子は、相手方から出て行くよう言われるまでは居住すると返答し、相手方も、同女に対し、病の母の看護のためにも、申立人が帰来するまでは残留するよう求めていた。そのようにして、双方の主張が対立するままに推移したが、相手方は、同年二月一五日付の申立人宛手紙で、「二月一九日までに回答ないときは、離婚手続をとる。」旨を一方的に通告した。折悪く、この手紙は申立人が不在のため、漸く二月一九日に申立人に到達した。申立人は早速相手方を訪ねて、協議したが相手方との意見の調整がつかず、互いに感情的に鋭く対立したまま別れた。しかるに、相手方は翌二月二〇日申立人に無断で離婚届を出してしまつた。申立人は、このことを知らないまま、同年三月一一日当庁に対し、「申立人と相手方とが円満に夫婦生活ができる」よう調停の申立をなし、当庁において、同年三月二四日から四回にわたつて調停期日が開かれたが、結局同年四月一三日、申立人は、離婚について慰籍料一〇〇万円、財産分与一五〇万円、扶養料として一六〇万円を要求し、相手方は一〇〇万円も支払う能力がないとして話合いが進まず、不調に終つた。

次いで、申立人は、同年一〇月三日付で、相手方に対する財産分与ならびに長女町子の親権者変更の調停を当庁に申立てた。この調停も、同年一二月三日不調に終わり、同日審判手続に移行したので、審理が進められた。当裁判所は、昭和四〇年八月九日参与員として森千枝松、同富久シゲを選任して、その意見を聴取しながら、関係人の審問に当つたが、審理の過程において、相手方がなした昭和三九年二月二〇日付の離婚届が申立人の真意に基づかない無効のものであることが判明したので、申立人に対し、同離婚届を追認するかどうかを確かめたところ申立人はその意思のないことを表明した。ところが、相手は当裁判所の説明を誤解して、昭和四〇年六月二九日松山市役所に、申立人との婚姻届を申立人に無断でなしてしまつた。そのため、当裁判所は、当事者双方の合意のもとに、上記離婚と婚姻届の各無効審判をなした。かくて、申立人と相手方との法律上の地位は昭和三九年二月二〇日付離婚届前の状態に復したので、申立人は、前記財産分与、親権者変更の申立てを取下げた。その後、申立人は、再び相手方に対し、夫婦関係調整の申立をなし、当裁判所は、昭和四〇年八月二〇日から九回にわたつて調停を続けたが、遂に調整の余地なく、翌昭和四一年一月二四日不調となり、その結果、申立人は、本件同居、協力扶助の審判申立に及んだものである。

以上のような事実が認められる。もつとも、前記証人および参考人ならびに当事者双方の供述中には、前記認定に反する部分も存するが、当裁判所は前顕各証拠を綜合して、以上の認定をした次第であるから、これに反する部分は措信しない。

さて、以上認定の事実関係に徴して、はたして、申立人が相手方と同居することの審判をなしうるかどうかについて検討する。

民法第七五二条は、「夫婦は同居し、互に協力し扶助しなければならない。」と規定しており、この夫婦の同居、協力扶助義務は、婚姻の本質的効果であつて、婚姻の成立とともに発生し、これが解消するまで存続するものであるから、同居を妨げるべき特別の事情のない限り、夫婦は常に同居しなければならないことはいうまでもない。したがつて、特別の事情があつて一時的に同居ができない場合においても、その事情が解消すれば、直ちに同居しなければならないものである。

しかしながら、夫婦が離婚の合意をして別居し、両者の間に夫婦共同生活の実体が失われてしまつたが離婚の届出はしていないというような場合は、別個に考えなければならない。

これを本件についてみると、前記の如く、申立人と相手方とは、昭和三八年六月一五日、相手方は申立人に金三〇万円を、一年後金一〇万円を手渡しかつ二女利子の親権者を申立人母とすることを条件に離婚の合意をし、同日申立人は相手方から金三〇万円を受領して別居し、その後、相手方は島田啓子と内縁関係を結んで現在に及んでいる。また、申立人は相手方との同居を求めているとはいうものの、その主たる動機は、長女町子、二長利子とともに、相手方の現在家屋に居住したいというのであつて、その感情的対立は到底解き難い現状にある。もつとも、申立人と相手方とは昭和三九年一月二八日調停期日において同居の合意をしており、これが、相手方の過大な条件の提示によつて同居できない状態となつたことは、前記のとおりであるが、これも、双方の同居が夫婦間の感情的対立が解消して合意されたというのではなく、専ら子供の幸福という点のみに重点がおかれていたのであつて、そのため同居の話合いを契機として、かえつて双方の感情的対立の程度が深刻化したことが窺われ、現在においては、申立人と相手方との間の夫婦共同生活の回復は到底不可能の状態にあると認められる。

このように、申立人と相手方との婚姻関係が破綻している現状においては、当裁判所がその同居義務を審判によつて具体的に形成してみても、夫婦関係の倫理性、規範性の意識を喚起する可能性を見出せないし、また夫婦共同生活の実現が期待できるものでもない。もつとも、だからといつて、このような場合に、夫婦同居義務が消滅すると解するものではない。けだし、このような場合でも、離婚するまでは、事情の変更が考えられないではないのであるから、同居義務そのものを否定することは誤りであり、やはり潜在的な同居義務は存続すると解するからである。(もし、そう解しないと、離婚の合意のもとに数年間別居した後、再び同居したという場合に、消滅した同居義務が復活するという奇妙なことになつてしまう。)

以上の如く、現在、申立人と相手方とは、夫婦関係との感情的対立が強くその破綻の程度が高いので、当裁判所としては、現状においては、同居を命ずることを相当と認めることができない。ただ、相手方も申立人も、ともに子供達の幸福について真摯に考えているのであり、また、子供達も夫婦の和合を切望しているのであるから、当裁判所が現在の段階で同居を命じないからといつて、相手方は現状に満足することなく、申立人と相協力して、子供の教育監護に力を至すことが望まれる。

また、申立人が協力扶助として、相手方所有名義の土地を町子利子の共有とし、もしくは、申立人と相手方の共有とするとの申立は、協力扶助として相当でないことが明らかであるから、申立人の主張に添う処分を命ずることはできない。

なお、相手方が島田啓子と現住居から転居し、申立人と町子、利子が同所に居住するということも、協力扶助の態様として考えられないではないが、前記認定の如く、申立人は土地家屋の取得分の一部として、すでに金三〇万円を相手方から受領している事実に鑑みれば、相手方をその居住家屋から転居させる方法で相手方に協力扶助を求めることは相当であるとは考えられない。

よつて、本件申立を却下し、主文のとおり審判する。

(家事審判官 糟谷忠男)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例